天磐戸神社

徳島県美馬郡つるぎ町・天磐戸神社 天岩戸の大元を探す

天磐戸(天岩戸)神社

〒779-4306 徳島県美馬郡つるぎ町一宇字法正2667-2 
国道438号線を剣山方面に向かう第1ヘヤーピン付近右側に案内板がある。
その先は林道で、一部陥没や倒木・石などがあるので注意。

ご祭神

天照大神
天手力男神
天宇受売命
猿田彦大神

日本、〒779-4100 徳島県美馬郡つるぎ町一宇法正2667

 徳島・淡路島エリアは古代ユダヤの痕跡を多く残す場所だ。磐境神明神社やホテルニューアワジ敷地内にある遺跡、祖谷周辺の斜面に張り出した木の板で平面を延長する建築様式など数えきれないほどの類似点を上げることができる。剣山周辺は「酷道」とも言われる国道438号と439号を通ることになるが、「日本人とは何か」を考えようとするとき、このエリアとドラヴィダ族に関連して島根の大田市と出雲市は外せないところだろう。

 日本人は単一民族だと教えられてきた人は多いと思うが、古代へと遡れば遡るほどそれは単なるお為ごかしに過ぎないことは明らかだ。少なくとも歴史の教科書には「渡来人」の存在が記述されていて、少なからぬ人たちが朝廷の要職についていたことがわかる。彼らは定住し、それまでの「日本人」と混血して新しい日本人になっていったはずだ。その「渡来人」について、私たちは中国系、朝鮮系の人たちと大まかに分類してきた。だが、例えば秦の始皇帝がユダヤ系だったのではないかという説が事実だとしたら、ユダヤの血統が中国系として古代日本に入ってきた可能性はあることになる。

 バビロン捕囚(強制移住であり、奴隷となったわけではない)があり、ユダ王国からバビロニアに強制移住させられた人々はアケメネス朝ペルシャが建国されるまで帰還を許されなかった。アケメネス朝ペルシャは秦と同時代の国だが、その領土は現在のカザフスタンなど中央アジアに跨っている。遊牧民が暮らしていたこのエリアでは匈奴との争いが頻発していた。匈奴に捕えられて奴隷として売られたユダヤ系の人間もいれば、ペルシャを出て秦に行った者もいただろう。秦のあった陝西省に接する四川省に暮らす羌族は、イスラエルの調査機関アミシャブによって失われた10支族のマナセ族だとされている。百済もしくは新羅(秦から逃亡した人間が多く暮らしていた)から日本に来たという弓月君は秦氏の祖先として知られるが、一族の大元・月氏の勢力圏は匈奴が活動していたエリアと重なっている。

天磐戸神社への道
天磐戸神社鳥居
天磐戸神社手書きの看板

 日本の神道とユダヤ教の共通点はよく知られている。伊勢神宮の石灯篭に刻まれた籠目紋(六芒星)とダビデの星、年越しと過越の祭、7月17日に行われる祭り、山伏の兜巾と祈る時にユダヤ人が額につける「ヒラクティリー」と呼ばれる小さな小箱、神社の構造や狛犬(古代ソロモン神殿の前に置かれたライオン)、神輿とアークなど、大きな違いを見つけようとする方が難しい。神道全体ではないが、諏訪には守屋山があり御頭祭(75頭の鹿の頭を捧げる)が行われているのに対し、イスラエルではソロモン王の神殿があった丘はモリヤで、過越祭では75頭の羊が贄となった。鳥居(古代アラム語で”門”)はモーセの出エジプトに際して、殺戮の天使による被害を避けるために玄関の柱二本と鴨居に羊の血を塗ったことに由来する。

 大化の改新で中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏を政治の中心から排斥したのは、古来からの神道を守ろうとしたという側面もあるのではないかと言われる。鎌足は赤ん坊のときに稲荷大神から鎌を授けられ、入鹿を討つまでお守りとして身につけており、その後お告げによって鎌倉の地に奉納したとされる。稲荷と言えば、十字架にかけられたキリストの頭の上に「INRI」と書かれているのは広く知られている。

つるぎ町天磐戸神社説明看板
天磐戸神社参道
天磐戸神社参道

 日ユ同祖論を否定しようとするとき、わざわざ海を渡って古代ユダヤ人が日本まで来るわけがないと言われることがあるが、バビロン捕囚からアケメネス朝、そして秦を経て(またおそらくは古代朝鮮半島の国を経て)大化の改新のうち乙巳の変に至るまでというのはB.C.597からA.D.645という長い年数を経ているのだ。ミトコンドリアDNAは男女にかかわらず女系の祖先を辿れるが、ハプログループは父親から受け継がれていくY染色体からの検査なので、男性しか父方の直系を調べることはできない。一つの集団として動くときに男女は同じ人種だった可能性は高いが、ミトコンドリアイブ、Y染色体・アダムという多くの人にとって共通の祖先となる存在がいる以上、「〇〇人はどこから来たのか」という疑問は、それが何人であっても答えは「アフリカから」になってしまうのだ。

天磐戸神社参道途中磐座
神楽岩

 大和朝廷の祖である神武の東征は、ユダヤ系による統一の過程だったと言われる。結果的ではあるのかもしれないが、大和朝廷が現在の神道の形を作り、政治を作り、日本という国を作り、ここまで維持してきたのだ。その途中で蝦夷や熊襲と呼ばれた人々も殺されたり、同化したりして今の形になった。ハプログループで見ても「日本人」の中に別の系統が混在しているのだから、少なくとも血という意味で私たちが単一だったことはない。そして、単一民族であるなんてことにこだわる必要など全くない。

 ともかく、古代ユダヤの色が濃い地域にあるこの神社は、神楽の舞台だったのではないかと言われる巨大な岩や急な石段を登ってどうにか参拝できる社、その後ろにある磐座がとても印象的だ。前回訪れたときは浮石が怖かった印象だが、今回は足を踏み込んでヒヤッとすることもなく、地元の方たちが大切に手入れしてくれているのだろうと感謝した。

天磐戸神社社
天磐戸神社社奥上から
猿田彦大神
天宇受売命

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