益田岩船アイキャッチ

奈良県橿原市・益田岩船 古代の宇宙船とも言われる巨石

益田岩船

〒634-0051 奈良県橿原市白橿町8丁目20−1
      近鉄吉野線 岡寺駅から徒歩約20分
      橿原神宮から車で約6分

日本、〒634-0051 奈良県橿原市白橿町8丁目20−1

 益田岩船という謎の多い巨石は、橿原神宮から駅の手前を右折していくと右側の住宅街の中、貝吹山の丘陵にある。エリアとしては明日香にも近く、丘を登る岩船までの道も5分程度できつくない。橿原からの道路沿いは狭く近場に駐車場がないので、岩船に向かう脇道を少し上ったあたりに止めさせてもらった。

 写真で見るよりずっと大きく感じられる岩には升目のような模様が刻まれ、岩の上部分には二つの四角い穴が開けられている。どちらも明らかに人の手によるもので、地形的なことを考えてもこの巨岩が元々この場にあったものとは考えられない。すぐ隣の明日香村には石舞台古墳があるが、今まで整備が進められてきた牽牛子塚古墳が横口式石槨を持っており、その形に似ていることから古墳施設として使われるはずだったのではないかという説がある。ちなみに来年3月の一般公開を予定しているという牽牛子塚古墳は当時でも珍しい八角墳で、斉明天皇と娘の間人皇女の墓なのではないかと考えられている。

 斉明天皇は重祚以前は皇極天皇、天智(中大兄皇子)と天武(大海人皇子)という二人の天皇の母でもあり、乙巳の変(大化の改新)当時の女性天皇だ。現北海道の蝦夷に対して阿倍比羅夫を送り込んだり、唐と新羅によって百済が滅ぼされたとき日本にいた豊璋を半島に戻して白村江の戦いを行ったりしたことで、実在が怪しい神功皇后のモデルになった人物ではないかと言われる。記紀での神功皇后は神託を受ける巫女であるという側面が強調されているが、斉明天皇も雨乞いや神事としての相撲を行った記録が残っている。

益田岩船看板
益田岩船へ
益田岩船へ

 磐座といえば素戔嗚尊、素戔嗚尊といえば大元は出雲・八雲山だが、八雲山から益田岩船を結んだ線上には兵庫県の生石神社-石の宝殿がある。個人的にレイラインなどについてはあまり調べていないのだが、八雲山と逆方向に線を延ばしたらどこになるのだろうと地図を見てみたところ、三重県の度会町にある古神道の度会神道と縁が深いという仙宮神社のあたりに行き着いたのは興味深いと思った。古代の人々が線上に来るように作ったのか、エネルギーに敏感だったために結果的にそうなったのかはわからないが、後世を生きる私たちにとってヒントがあるような気がする。

益田岩船へ
益田岩船説明看板
益田岩船

 ヒストリー・チャンネルの『古代の宇宙人』で、ナビゲーターが益田岩船を訪れたことがある。彼は益田岩船に刻まれた格子模様を「インドのマハーパリプラムに似た意匠が見られた」と言っていたが、イスラエルのマサダ要塞との相似を指摘する意見があったり古代の宇宙船説があったりと、長いときを経た今ではどれが真実とも言い切れない数々の説がある。いずれにせよ、700年代と推測される時代の人々がこれだけの巨大な岩をおそらくは運び、削り、安定した状態で置いていたという事実そのものが驚きではないだろうか。

益田岩船裏側
益田岩船
益田岩船

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