旧御射山社

長野県茅野市・旧御射山社 鹿と人間と神                                                     

旧御射山神社(霧ケ峯本御射山神社)

〒392-0012 長野県諏訪市四賀

456C+WW 日本、長野県諏訪市

 現在は諏訪郡富士見町にある御射山社だが、こちらは旧御射山社と呼ばれる。駐車スペースがほぼないので、八島ヶ原湿原の駐車場を使って遊歩道を経由するか、ビーナスラインに立てかけられている旧御射山社の看板(諏訪から霧ヶ峰に向かう途中にある川の手前右側にかけられているが、わかりにくいのでかなり注意していないと見つけられないかもしれない)から入った川縁に駐車して、徒歩で向かうことになる。どちらにしても旧御射山社までは30分から1時間弱見ておいた方がいいだろう。

 地元の人間ではない自分たちがここに行き着いたのは、前回 長野県茅野市・御頭御社宮司総社 深き祈りの場所 で書いた神長官守矢史料館の「鹿くん」たちと人間が対峙していた場所を探したためだ。Google Mapを見てもどこから入ればいいのかわからずにいたところ、たまたま入った諏訪市博物館である程度の場所がわかったので行ってみた。ヴィーナスラインから右に折れた細い道を川に沿って行くと、辛うじて車を止められるスペースがあり、そこから丘のようになっている道を進んでいく。鎌倉時代には多くの武士、大名や白拍子、巫女や呪師などが訪れて御射山祭を行っていたというこの場所は段々畑のように桟敷跡が残っていて、ただ広がる原っぱとその際に並ぶ木々の中を鳶の姿を見ながら進んでいく。

 しばらくすると左側の下の方にヒュッテの屋根が見えてくる。そちらに向かって降りていくと、平地になっている場所があってそこに旧御射山社の社がある。かつては諏訪大社の摂社だったが、現在は霧ケ峯本御射山神社として地元の方たちが管理しているのだという。この一帯は旧御射山遺跡と呼ばれ、神事や奉納射技に使ったものや古銭、カワラケと呼ばれる素焼きの皿などが出土している。私たちが行ったときもカワラケの欠片らしいものをいくつか見かけた。

 旧御射山社の手前に説明の看板があり、旧石器時代の遺跡が多いと看板に書かれている。霧ヶ峰近辺は黒曜石の産地でもあり車で1時間圏内には尖石や星くそ峠、和田峠など縄文時代を中心として古代遺跡の多いエリアだ。日が落ちてからの霧ヶ峰ではよくUFOが姿を現していて、古代から未来までが繋がれているエリアなのだと思う。

旧御射山
旧御射山遺跡看板
旧御射山遺跡競技場跡
旧御射山社に降りる辺り

 旧御射山遺跡は発掘された当初は競技場の跡だと考えられたが、大祝の潔斎する宿舎、神殿が出土したため祭祀跡だということがわかった。松尾芭蕉が詠んだ「雪散るや 穂屋の薄の刈り残し」は御射山祭についての句だが、芭蕉は冬の信濃を訪れたことはなく、心に浮かんだ景色を詠んだものなのだろう。

 旧御射山社の周囲にある平地には鹿のフンが相当落ちていて、かなりの数がこの付近で暮らしていることがわかる。車に戻るために歩いていたとき、川の土手になっている急斜面の笹藪からガサガサと音がしたので連れが大きな声を出したら、一頭の鹿が川の方へ降りていき、もう一頭が目の前から飛び出してきて私たちの前を横切っていった。ごめんね、お邪魔させてもらってありがとうねー!と言うと、おそらく雌のその鹿は不思議そうな顔をして私の顔を見ていた。彼らの活動時間が始まる夕方あたりはヴィーナスラインでも鹿の群れに出くわしたり、途中途中にある駐車場のすぐ脇に鹿がいて遊ぶ声が聞こえてきたりする。お互いの境界・安全を気遣うとしたら、ここを訪れるのは日の高いうちの方がいいのかもしれないと思った。

 日本各地にそれぞれの特色、その場所ならではの景色があるが、旧御射山社周辺は時を超えた場所の記憶が残っているように思う。ただ歩きながら景色を見ているだけなのに、そこに無数の人々や鹿や鳶の声、木々のざわめきや風の音が重なってくる。今この肉体に収められている「私」が私になる前の遠い記憶を引っ張り出されるような場所なので、好きな人はとても好きだろうし、苦手な人はとことん苦手な場所なのではないかと思う。

旧御射山社看板
旧御射山社
旧御射山社
旧御射山社

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